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#松坂屋ヒストリア小話 まとめ11〜20


#松坂屋ヒストリア小話 とは?

松坂屋創業407年の中でうまれた、
皆様に「すごいじゃん松坂屋!」「へぇ〜」と思って頂ける
ちょっとした小話を
2018年3月14日から毎週水曜日に館内デジタルサイネージや、
松坂屋名古屋店twitter,Instagramの公式アカウントにて、
ご紹介しております!

今回HPではそれらをまとめてお送りいたします!

天皇陛下の玉座から西郷隆盛、土方歳三、夏目漱石、浅草寺大提灯までと
松坂屋のことがより一層気になるエピソードが盛りだくさんです!


【その十一】江戸時代の「雛形本」のコレクションは日本最大級!(2018/5/23配信分)

松坂屋コレクションというと、
今年3月に重要文化財指定となった小袖や能装束などの時代衣裳のコレクションをイメージされる方が多いと思いますが、
それだけではありません。

衣裳以外に東洋・西洋の古代裂、能面や軸装などの調度品、雛形本などの所蔵品も多数含まれ、
コレクション合計としては計1,500点を数えます。
江戸時代のスタイルブックともいわれる雛形本は、
木版刷りの冊子で小袖の背面図を中心に文様や技法、配色などが記されており、
江戸時代の人たちがファッション誌として見て楽しむとともに、
小袖や振袖などを誂えるときの見本帳としても用いられました。
出版された総数については諸説ありますが、再販を含むと200種弱ともいわれています。

松坂屋はその約半数を所蔵しており、コレクションとしては日本最大級を誇ります。

※史料室の展示は既に終了いたしております。


【その十二】「松坂倶楽部」は国内初のカルチャーセンター!(5/30配信分)

昭和12年3月5日、増築が完成した松坂屋大阪店は、大阪地区の同業百貨店に対抗するため、
他店には見られない独創的な施設を整備しました。
そのひとつが7階に開設したわが国初のカルチャーセンター「松坂倶楽部」でした。
この文化教室は、趣味を通じて店の顧客吸引・固定化を狙った当時としては全く新しい企画で、
邦楽・洋楽・舞踊・華道・料理などの講座が開講となり、
どの教室も一流の権威ある先生方によって運営されました。
講座内容も設備もわが国最初、且つ最高峰の趣味の殿堂として会員も順次増加。
1年後にはホールで「おさらい会」を開催。倶楽部の宣伝誌「趣味道場」を発行するなど発展を続けました。

松坂屋大阪店は平成16年(2004年)に閉店しましたが、
松坂屋名古屋店でも昭和56年に北館7階に文化教室を開設し、
現在も約100講座を開講中で約1,600名の生徒さんに受講いただいており、
百貨店の文化教室としては日本最大級の規模を誇ります。
「生活と文化を結ぶ松坂屋」の精神はここにも生きているのです。


【その十三】エレベーターガールは松坂屋から!(6/6配信分)

わが国の百貨店の歴史における画期的な出来事のひとつが、
「エレベーターガールの登場」です。そしてその先鞭をつけたのが松坂屋上野店でした。
関東大震災(1923年、大正12年)によって焼け落ちた松坂屋上野店は仮営業所で営業を再開しながら、
震災復興・再建をめざし1926年(大正15年)10月に本館再建工事に着手。
2年余りの歳月を経て1929年(昭和4年)に全館完成、同年4月1日開店を迎えました。
新店舗はルネッサンス風の荘厳華麗な建物でしたが、新築を機に自動開閉装置がついた最新式のエレベーターを導入し、
女性でも簡単に操作ができるようになったこともエレベーターガールの誕生につながりました。
当時「『昇降機ガール』が日本にもできた。上野松坂屋の新館で初試み」
との記事が新聞を賑わせ、運転しながらフロア毎に売場の案内を行うエレベーターガールはご来店客に大好評で、
すぐに銀座店でも導入され、全国のデパートに広がっていきました。
時代の流れもあり、現在松坂屋のエレベーターガールは名古屋店のみとなり、
繁忙日に顧客案内係がエレベーターの運転を行っております。

なお松坂屋史料室では、2018/8/28まで第33回企画展「松坂屋の華たち-顧客案内係 夏の装いー」を開催。平成元年以降に顧客案内係が着用していたニナ・リッチ社の制服や帽子なども展示しており、まさに平成時代のエレベーターガールのファッションの変遷をご覧いただけるまたとない企画となっております。平成時代といえばバブル崩壊や不況、震災などの暗いイメージが連想されがちですが、そんな厳しい時代の中にあってもその時々の流行を映し出したファッションに身を包み「松坂屋の華」として輝いていたエレベーターガールたちの素敵な笑顔を、展示作品の中に感じていただければ幸いです。

※松坂屋史料室は松坂屋名古屋店南館7階にあります。展示期間中は無休で入館料は無料、開館時間は10:00~19:30となっております)


【その十四】西郷隆盛率いる官軍の本営があったのは松坂屋!(6/13配信分)

薩長連合、王政復古、戊辰戦争を指導し、武力倒幕派主導の維新政権樹立に貢献した西郷隆盛は、
戊辰戦争の最大のヤマ場ともいわれた上野戦争で、
いとう松坂屋(上野店)の2階に参謀部をおき、幕府側の彰義隊と相対しました。

慶応4年(1868年)5月15日に戦争が勃発し、戦火で上野広小路一帯が焼け野原になったなか、
本営が構えられた上野店は焼けずにそのまま残りました。
5月17日には官軍の西郷吉之助(隆盛)、橋本実梁少将、熊本藩の細川侯たちが休憩のため訪れ、
大勢の見物人が詰めかけたとのことです。

その後上野店では、西郷が審議した部屋を保存し、後世に伝えていましたが大正12年の関東大震災で焼失しています。
創業以来400年有余年の松坂屋、幕末から近代にいたる時代においても歴史上の多くの人物と関わりをもってきています。


【その十五】新撰組の土方歳三は松坂屋で奉公していた!(6/20配信分)

幕末から近代における松坂屋の歴史秘話のひとつに新選組副長・土方歳三(1835~1869年・享年34歳)との関わりがあります。
武蔵多摩郡石田村(現東京都日野市)の富農の子として生まれた土方歳三が上野の「いとう松坂屋」へ奉公にあがったのは、
弘化2年(1845年)のこととされ、数え11歳のときでした。
ところが些細なことで番頭と衝突し、そのまま生家に戻ってしまったとのことです。

それから数年を経た嘉永4年(1851年)、17歳になった歳三は、
今度は当時松坂屋上野店の支店であった木綿問屋・亀店(かめだな)に勤務したとのことです。
その後歳三は松坂屋を離れ左幕活動に身を投じますが、もし松坂屋で晩年まで勤め上げていたならば、
幕末の歴史は随分と違ったものになっていたのではないでしょうか。

なお土方歳三が奉公にあがっていた時代のいとう松坂屋の外観が
歌川広重の「東都名所 上野広小路之図(1839~1842年)」に画かれています。


【その十六】「あやめの衣」の衣装は松坂屋コレクションとして大事に保管されています。(6/27配信分)

明治、大正、昭和の三代に亘って画壇に重きをなした
洋画家・岡田三郎助(1869~1939、享年70歳)は、
「婦人像の岡田」「美人画の岡田」と称えられ、
日本近代洋画史に大きな足跡を残すだけでなく時代衣装のコレクターとしても知られています。

この岡田三郎助の代表作「あやめの衣」(昭和2年)は
昭和57年発行の郵便切手の図案にも採用され、
岡田の美の到達点ともいえる名画としてとりわけ有名ですが、
この絵のモデルが着用していた衣装「納戸縮緬地八橋文様小袖」も岡田三郎助のコレクションのひとつでした。
この小袖は後に松坂屋が譲り受け、現在は松坂屋コレクションとなっています。

このほか「あやめの衣」の翌年に制作された婦人画「来信」(昭和3年)モデル着用の衣装「紫縮緬地檜扇蔓牡丹文様振袖」や、
紅型の逸品「鬱金布地市松枝垂桜鶴燕模様」など、
岡田三郎助が長年に亘り蒐集した時代衣装のうち約130点もの貴重な衣装が
現在は松坂屋コレクションとして保存管理されているのです。


【その十七】夏目漱石が松坂屋で一句! 「乙鳥や 赤い暖簾の 松坂屋」(7/4配信分)

「乙鳥(つばくろ)や赤い暖簾(のれん)の松坂屋」

この句は、夏目漱石が明治29年(1896年)3月24日に、
当時教師をしていた愛媛県松山市から東京市下谷区に住む正岡子規へ送った中の一句です。
江戸時代から明治時代にかけての商家の暖簾は、紺地に白抜きのものがほとんどでしたが、
いとう呉服店(松坂屋)の暖簾には地色が赤(柿)色のものもあり、
赤い暖簾は店舗の出入口にもなっていました。
わが国のコーポレートカラーのはしりともいえる赤い暖簾は、
当時の人々に深い印象を与えていたとおもわれます。

文豪・漱石も江戸っ子であり、江戸時代の風情を残す上野の松坂屋に思いを馳せてこの句を読んだのでしょうか。
なお、漱石は大正4年(1915年)1月29日の日記にも、松坂屋で買い物をしたことを記しています。


【その十八】昭和天皇・皇后両陛下に玉座を上納!(7/11配信分)

昭和26年(1951年)春。
宮内庁から、松坂屋をはじめ有名デパート3社に、天皇陛下の御椅子(玉座)謹製の内意が伝えられました。
この玉座は、戦災により焼失した明治宮殿に代わって宮内庁庁舎3階に作られた
仮宮殿の宮中表北の間(謁見の間)に儀式用に置かれる物で、
3社それぞれデザイン設計を出し合い、採用されたデパートが製作するというものでした。

松坂屋は早速専属の家具工場であった子会社の(株)誠工舎(現在の(株)J.フロント建装)に
発注を依頼しデザイン設計にとりかかりました。
デザインにはほぼ6ヶ月を要し、
肘掛下部には百獣の王ライオンが彫られ、背もたれ上部には鳳凰を配した見事な彫刻、
金箔押しの木部にアズキ色の布部、房は金糸とするなど重厚荘厳にデザインされた
松坂屋の設計図は、他デパートと競い合った結果見事採用されたのです。

正式のご下命は昭和27年5月で同年10月に納入を完了していますが、
デザインにかかってから完成まで50人もの職人の手をかけ、
ほぼ1年半の歳月を費やしています。
金色燦然たる玉座は昭和28年の新年祝賀の儀で初めてご使用になられ、
以来昭和44年新宮殿に移られるまでの16年間、つねに両陛下とともにあったと伝えられています。


【その十九】浅草寺雷門大提灯に松坂屋の名が!(7/18配信分)

「雷門」の文字が入った大提灯で有名な浅草雷門は、慶応元年(1865年)に焼失。
昭和8年(1933年)に浅草寺が本堂修復記念開帳を行った折に、
松坂屋は旧雷門跡地に往時そのままの雷門を建立し寄進しました。
そのため当時の雷門の大提灯には寄進者である松坂屋の社名が入っているのです。

この松坂屋が再建した雷門は、
昭和20年3月10日の空襲で浅草寺本堂とともに炎上したものと思われますが、
終戦後、昭和35年に現パナソニックの松下幸之助氏により鉄骨鉄筋コンクリート造の雷門が再建されて以降、
その大提灯には「雷門」の文字が入るようになったということです。

なお浅草寺と松坂屋の関係がわかるもうひとつの歴史的事実があります。
それは昭和4年(1929年)に松坂屋名古屋店6階会場で開催された「浅草観音御開帳」催事で、
この催事の最大の目玉は門外不出であった浅草寺のご本尊「一寸八分(約5.5cm)の黄金仏」の展示でした。
新聞広告のコピーにも「且つて類例なき空前絶後の御開帳、
今回は特に本堂御修復中に付き御結縁の為め御勧請奉安」の文字が躍っています。
江戸時代を通じて一度も出開帳(※)をしたことがなかった浅草寺が、
はじめて名古屋の松坂屋で出開帳したという事実は、
浅草寺と松坂屋の深いつながりを物語っているものといえましょう。

※ご参考:「出開帳」とは、その神仏を所持する寺社で開帳する「居開帳」に対し、
地代を払って他の寺社の境内を借りて開帳すること。


【その二十】松坂屋は日本の百貨店史上初の「土足入場」を断行した!(7/25配信分)

関東大震災後の百貨店復興のトップをきり、
震災翌年の大正13年(1924年)に松坂屋は東京銀座に銀座初の百貨店である松坂屋銀座店を華々しくオープンしました。
震災後1年3か月、ようやく復興の始まった銀座通りは震災の傷跡がまだ至る所に生々しく残っており、
地上8階建ての銀座店は復興一番乗りの威容を誇っていました。
そして銀座店は開店にあたり全館を国内百貨店史上初の土足入場に踏み切ったのです。

それまでの日本の百貨店には下足番がいて、
来店客は靴や下駄などの履物(下足)を下足番に預けて履物札を受け取り入場する「下足預かり」という
しくみであったため、
当時の松坂屋の土足入場の開始は画期的な大英断だったといえます。
翌大正14年5月に新築開店した松坂屋名古屋店、
同年9月には松坂屋上野店でも土足入場を開始し、
同業の百貨店も追随していきました。
これが契機となり百貨店の大衆化が急速に進んでいったということです。

松坂屋の画期的で革新的なマインドは、
銀座店跡地にオープンした「GINZA SIX」にも引き継がれ銀座のランドマークとして存在しております。


最新の投稿はSNS上、または館内サイネージにて配信いたしております!お楽しみに!

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#松坂屋ヒストリア小話 まとめ1〜10

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